ダンマパダ〜真理のことば

ダンマパダ〜真理のことば

 

『ダンマパダ』(Dhammapada)は、パーリ語で書かれた仏典のうちでは恐らく最も有名なものであろう。「ダンマ」とは「法」と訳され、人間の真理という意味である。『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元/訳より抜粋

 


以下の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

【参考】

『ブッダの真理のことば 感興のことば』

中村元/訳 岩波文庫


『真理のことば』(ダンマパダ)

全26章423句の詩集。漢訳の「法句経」に相当。各章から5句ずつ130句を抜粋紹介しました。書籍には84ページ分の注釈が掲載されています。


『感興のことば』(ウダーナヴァルガ)

この詩集については抜粋紹介していません。

 

画像については、書籍の内容を参考に作成したものです。それ以外の追加情報については参照元を個別に記載します。

 



『真理のことば』(ダンマパダ)

『ダンマパダ』(Dhammapada)は、パーリ語で書かれた仏典のうちでは恐らく最も有名なものであろう。「ダンマ」とは「法」と訳され、人間の真理という意味であり、「パダ」は「ことば」という意味である。


現代語ではしばしば「真理のことば」と訳される。短い詩集で四二三の詩句より成る。全体は二十六章に分かれている。この書は漢訳の『法句経』に相当する。


『ダンマパダ』は人間そのものに対する、はっと思わせるような鋭い反省を述べ、生活の指針となるような教えが述べられている。そのため世界諸国を通じて人々の愛誦するところとなった。

(訳者・中村元氏のあとがきより抜粋)


第一章 ひと組みずつ

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。


二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。


五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息む(やむ)ことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。


十九 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。――牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。


二〇 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。



第二章 はげみ

二一 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境地である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。


二六 知慧乏しき人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝(たから)を守るように、つとめはげむのをまもる。


二九 怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。


三一 いそしむことを楽しみ放逸におそれをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでもすべての心のわずらいを、焼きつくしながら歩む。――燃える火のように。


三二 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。

 


第三章 心

三六 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。


三八 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、さとりの知慧は全からず。


三九 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることがない。


四二 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。


四三 母も父もそのほかの親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

 


第四章 花にちなんで

五〇 他人の過失を見るなかれ。他人のしたことしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ。


五一 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。


五二 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には実りがある。


五三 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。


五四 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。



第五章 愚かな人

六一 旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。


六三 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。


六九 愚かな者は、悪いことを行なっても、その報い(むくい)の現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。


七一 悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。


七二 愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮(おもい)はかれの好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。

 


第六章 賢い人

七八 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。


七九 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す(ふす)。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。


八〇 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め(ため)、大工は木材を矯め(ため)賢者は自己をととのえる。


八一 一つの岩の塊りが風に揺らがないように、賢者は非難と賞賛に動じない。


八二 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。



第七章 真人

九四 御者が馬をよく飼いならしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人――このような境地にある人を神々でさえも羨む。


九五 大地のように逆らうこともなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように――そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。


九六 正しい知識によって解脱して、やすらいに帰した人――そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。


九七 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善行をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。


九八 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。



第八章 千という数にちなんで

一〇一 無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。


一〇三 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。


一一〇 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。


一一二 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。


一一五 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。



第九章 悪

一一九 まだ悪の報い(むくい)が熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇(あ)うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇(あ)う。


一二〇 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇(あ)うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。


一二一 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。


一二五 汚れの(けがれ)の無い人、清くて咎(とが)のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。


一二七 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、おおよそ世界のどこにいても、悪行から脱れることのできる場所はない。



第一〇章 暴力

一三一 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。


一三二 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。



一三四 こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵る(ののしる)ことがないからである。


一四二 身の装いはどうであろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。


一四四 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒めにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。



第一一章 老いること

一四六 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?――世間は常に燃え立っているのに――。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明をもとめないのか?


一五一 いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。


一五二 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。


一五三 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経(へ)めぐって来た、――家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて――。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。


一五四 家屋の作者(つくりて)よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。



第一二章 自己

一五七 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。


一五八 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことがないだろう。


一六〇 自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。


一六五 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。


一六六 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。



第一三章 世の中

一六七 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪(よこしま)な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。


一七一 世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。


一七二 また以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世を照らす。――雲を離れた月のように。


一七三 以前は悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。


一七七 物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、それゆえに来世には幸せとなる。



第一四章 ブッダ

一八一 正しきさとりを開き、念(おも)いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。


一八三 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、――これが諸の仏の教えである。


一八四 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。


一八五 罵らず(ののしらず)、害わず(そこなわず)、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。――これがもろもろのブッダの教えである。


一九〇、一九一 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八正道)とを(見る)。



第一五章 楽しみ

一九七 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むことなく、われわれは暮らしていこう。


一九八 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩みなく暮らそう。


二〇六 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。


二〇七 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。――仇敵とともに暮らすように。心ある人と共に住むのは楽しい。――親族に出会うように。


二〇八 よく気をつけていて、明らかな知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。――月がもろもろの星の進む道にしたがうように。



第一六章 愛するもの

二〇九 道に違(たご)うことになじみ、道に順(したが)ったことにいそしまず、目的をを捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。


二一六 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。


二一七 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される。


二一八 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙(さまた)げられることのない人は、<流れを上る者>とよばれる。


二二〇 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を慈善が迎え受ける。――親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。



第一七章 怒り

二二三 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。


二二四 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。


二二六 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。


二二八 ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。


二三四 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。



第一八章 汚れ

二三九 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、――鍛冶工が銀の汚れを除くように。


二四八 人よ。このように知れ。――慎みがないのは悪いことである。――貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。


二五二 他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし、自分の過失は、隠してしまう。――狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。


二五三 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。


二五五 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。



第一九章 道を実践する人

二五七 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。


二五八 多く説くからとて、それゆえに彼が賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、――かれこそ<賢者>と呼ばれる。


二五九 多く説くからとて、それゆえに彼が道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人――かれこそ実践している人である。


二六五 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。


二六八、二六九 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を取り除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそれゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤にかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。



第二〇章 道

二七三 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちでは<眼(まなこ)あるひと>(=ブッダ)が最もすぐれている。


二七七 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


二七八 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


二七九 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


二八二 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生ずることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。



第二一章 さまざまなこと

二九〇 つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。


二九一 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、怨みから免れることができない。


二九二 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。


二九三 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。


三〇四 善き人は遠くにいても輝く、――雪を頂く高山のように。善からぬ人々は近くにいても見えない、――夜陰に放たれた矢のように。



第二二章 地獄

三〇六 いつわりを語る人、あるいは自分がしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、――この両者は死後にはひとしくなる、――来世では行ないの下劣な業をもった人々なのである。


三一二 その行ないがだらしがなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものも怪しげであるならば、大きな果報はやってこない。


三一四 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、何もしないほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。


三一七 恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならないことに恐れをいだかない人は、邪(よこしま)な見解をいだいていて、悪いところ(=地獄)におもむく。


三一九 遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人は、正しい見解をいだいて、善いところ(=天上)におもむく。



第二三章 象

三二〇 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。


三二八 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危機困難に打ち克って、こころ喜び、念(おもい)をおちつけて、ともに歩め。


三三〇 愚かな者を道伴れとするな。独りで行く方がよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。


三三一 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終わるときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。


三三三 老いた日に至るまで戒めをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。



第二四章 愛執

三三四 恣(ほしいまま)のふるまいをする人には愛執が蔓草のようにはびこる。林の中の猿が果実(このみ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。


三四一 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生まれと老衰を受ける。


三五一 さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。


三五二 愛欲を離れ、執着なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈略を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧のある人」と呼ばれる。


三五四 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみにうち勝つ。



第二五章 修行僧

三六一 身について慎しむのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。


三六八 仏の教えを学び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するだろう。


三七に 明らかに知慧のない人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧がない。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。


三七四 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。


三八〇 実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。故に自分をととのえよ。――商人が良い馬を調教するように。



第二六章 バラモン

三八六 静かに思い、塵埃(ちりけがれ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、――かれをわれは(バラモン)と呼ぶ。


四〇〇 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、――かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。


四一二 この世の禍福いずれにも執着することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、――かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。


四一九 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執着なく、よく行きし人、覚った人、――かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。


四に三 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、――かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。



以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

【参考】

『ブッダの真理のことば 感興のことば』

中村元/訳 岩波文庫


『真理のことば』(ダンマパダ)

全26章423句の詩集。漢訳の「法句経」に相当。各章から5句ずつ130句を抜粋紹介しました。書籍には84ページ分の注釈が掲載されています。


『感興のことば』(ウダーナヴァルガ)

この詩集については抜粋紹介していません。

 

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