今日のテーマは
『母という存在〜母の誕生日に』です。
に掲載した内容です。
【目次】
◆長女とのバトル
◆母は大変ですよね
◆幸せな母親になるために
◆母親の祈り
◆祈りの効果
◆母という存在
◆母の誕生日に
◆父親の母親への愛情
◆多くの母親のために
昨年のブログ『●家事は思いやり〜母の誕生日に』に引き続き、今年も長女とのバトルからスタートです。
1年が経過して、長女にも成長は見られるようになりました。家事を手伝う時に多少の思いやりを込めらるようになったことと、自分の部屋を綺麗に保てるようになったことです。
でも、自分担当の家事(1つのみ)が、毎日継続できないのですよね(涙)
やるときは以前のように腹を立てたりふてくされたりせず、「思いやりをこめて」できるようにはなったのです。でも続かない。やったり、やらなかったり。
そして「忙しそうだね、手伝うよ」といった類の思いやりは皆無です。部活も終わり、受験は控えているものの、ずいぶん時間もあるのですが。
今朝は久しぶりに頭にきて、「お母さんになった時、思い知ることになるよ!」と言ってしまいました。
色々なご家庭があるので一概には言えないですが、多くのご家庭では、家事のメインは母親が行なっているようですね。もちろんイクメンパパや主夫の頑張りも、あちこちで掲載されていますが、毎年のアンケートや統計をみても、全体的に大きな変化はないようです。
ちなみにうちの実家は父が家で仕事をしていたので、そんな言葉がなかった時代から主夫・イクメンを続けていました。それでも、そんな家であっても、娘から見て、家事も仕事も頑張っている母親は、本当に大変そうで、4人子どもがいて実家が遠かったのもあるとは思いますが、時間があれば、疲労回復のため横になっている印象でした。
でも、子ども時代には母親との楽しい思い出が沢山あって、手作りのケーキやパンを作ってくれたり、可愛い服を作ってくれたり、編み物を教えてくれたり、一緒に散歩して色々な自然を味わわせてくれたり、部屋の模様替えや飾り付けを一緒に楽しんだり、色々な話をしたり・・・本当に、いつ時間を見つけて関わってくれたのだろう?と今更ながら思います。
たぶん、できる時に心をこめてしてくれたことが、母の思いやりと共に、良い記憶となって残っているのでしょうね。
一日中家事や仕事をして、さらに子どもたちと関わってくれていた母は、今でも現役で仕事をしながらボランティア活動まで続けています。そして子育て時代よりも体力があるかのように元気なのです。もちろん年をとった分は体がつらいと話していますが。
子どもの頃はよくわからなかったけれど、母親が、家族のためや人のために頑張れるのは、「思いやり」や「愛情」の力だと、自分が母親になって分かってくるようになりました。
そうは言っても、毎日毎日の家事が365日一生続くと思うと、母親は大変だなあとつくづく感じます。
長女は、「家事を手伝ってくれる人と結婚するから大丈夫」と豪語していますが、子どもを産むことは母親しかできませんし、子どもが母親に求める愛情やお世話というのもあります。また「すべき」ではなく「やってあげたい」という気持ちも母親にはあるのです。つまり、子どもに手をかけてあげたいという気持ちが出てくるのです。
長女が母親になって、「やってあげたい」のに「できない」と、経験不足、体力不足、仕事の過剰、などから後悔しても、子どもと関われる時期は限られているため、後の祭りです。
幸せな育児生活を過ごすためには、それ以外の部分、毎日の家事や仕事やプライベートの「時間やエネルギーの使い方」を学び、生活の組み立て方などについて、少しでも知識や経験を積んでおいた方がいいと思います。
このようなことは、実家にいるころ、母がよく話して聞かせてくれました。
母がよく教えてくれたことは、「母親は外で力を全部使い切ってはいけない。子どもや家庭のための力を残して帰る必要がある」ということです。大学時代に、よく母と長々話をしていた記憶がありますが、思い返せば、母はいろんなことを教えてくれていたのだろうと思います。
母はいつもいつも、長い年月、私たち子どものために、そして多くの人々のために祈る人でした。私は母の祈りを感じて感謝したり、泣けてきたりすることが何度もありました。「祈ってくれている」という安心感は、「心配されている」などとは異なり、とてもリラックスした気持ちになれます。私は、母の祈りにいつも感謝しています。
祈りの効果について、昔本で読んだ大好きな話があります。
ある人が高速道路で走っていると、数台前を走っていた車が事故に会い、救急車で搬送されたそうです。その事故から救急車で搬送されるまでの時間、数台後ろの車から、無事を祈り続けていたそうです。
祈っていた人は、しばらくしたある日、電話で驚く話を聞きました。
その時事故に会った車の運転手が、「死にかけて、車から上空に意識が昇っている時に、数台後ろの車から光の輪が次々と上がっているのを見かけた。
その光を見ているうちに、意識が体に戻って助かった。警察にお願いしてカメラに映っていた数台後ろの車のナンバーから電話番号を調べ、電話をかけているのですが、あの時、あなたは何をしていたのですか?」と尋ねたのでした。
そこで、「あなたの無事を祈っていました」と伝えたところ、「あなたの祈りによって救われました」と大変感謝されたそうです。この祈っていた本人も、祈りが形になって見えたことや、それによって意識が戻って助かったという祈りの効果に感動したそうです。
次に私の体験ですが、私がうつ病で苦しんでいた時、何人もの友人から本が送られて来ました。でも以下のような体験は、その友達の時だけです。
ある日、大学時代の友人が、お父さんが出版した詩集を送ってくれたのです。それを宅配便で受け取り、手に取った瞬間、その友人の顔が光輝くビジョンで観えました。びっくりして、彼女に電話し、「ねえ、もしかして私のために祈ってくれていない?」と尋ねたのです。
すると友人は大変驚き、「どうしてわかったの?」と聞きました。そして、「祈ってる祈ってる」「集中的な祈りの期間で、1日に何時間も祈ってる。名前を書いた紙を置いて祈ってるよ」と驚きの事実を教えてくれたのです。
これは本当に涙が出るほど嬉しい体験でした。彼女にとっても嬉しい体験になったようで、「祈りは伝わる」と皆んなに伝えたそうです。(ちなみに友人と私は共に魂の成長を支え合う大切な親友です)
このように、祈りとは物理的な効果のある行動です。それは、祈りが周波数をともなって伝わるということなのです。
呪いも念の一種ですが、これは人を殺す力もあります。心配は祈りではなく悪い引き寄せに繋がるので手放す方がいい感情です。また、自分に都合の良いエゴイスティックな祈りは、自分にも相手にもよくない結果をもたらします。
ですから、祈りの質は非常に大切で、純粋な祈りに近づけることで、良い効果につながるのだろうと思います。自分の祈りや念がいつか必ず自分に戻ってくるということを念頭に置いておけば、より純粋な祈りに近づくのではないかと思います。
私は他者のために祈る時は、「神の御心のままに。良い方向に向かいますように。」というような気持ちで祈るようにしています。なぜなら、最善のことは私の小さな視野ではわからないだろうと思うからです。
母という存在はみんな、子どものために多かれ少なかれ祈っているものです。子どもの無事や幸せをどこかで祈り願ってくれています。
その表れ方は、子どもの思い通りでないかもしれず、言葉や態度が気に入らないものかもしれないですが、それでも、深い部分で子どものことを思いやってくれているのです。
自分は男だからとか、自分には子どもがいないからという方も、世界中の全ての人は、母という存在のお腹から生まれてきました。その意味で、「母という存在」に無縁の人はいないと思います。
子どもを殺してしまったり、虐待してしまったりというニュースもありますが、必ずどこかで、それは死んでしまってからかもしれないですが、必ず子どものことを思う時がくると思います。
「母という存在」とはそういうものだと思います。
今日は母の誕生日です。これまで育ててくれて、見守ってくれて、ずっと祈ってくれている母に感謝をこめて書きました。
「秋の実り」をテーマにした花のアレンジメントを、花屋まるよしさん(大好きなお花屋さんです)が心をこめて贈ってくださいました。
これまで頑張って生きてきた母に沢山の実りがありますように♪
先日電話で、父親がいいことを話してました。
うちの母は、天然でマイペースで、人が理解できない言動も多いのですが、(私は娘なので母の深い理由や目的は大体わかります。)そんな母親について人からとやかく言われても、
父は、『短い余生、夫婦守り合って、仲良く生きるのが一番大事だとしみじみ思う』と母を守って行くつもりだということを話していたのです。
金婚式を過ぎても仲のよい二人に驚かされると共に、これからも末長く、夫婦仲良く暮らしてほしいなと思います。
朝、ランニング&ウォーキングをしていると、小さな女の子の手をつないで幼稚園に歩いて連れて行く、疲れた表情の若いお母さんを毎日見かけます。
私も12年間、娘の手をつないで保育園に通ったので、昔の自分を思い出し、
毎朝毎朝、心の中で「お母さんがんばって。今はつらい時かもしれないけど、きっと楽しい時もくるよ」とお母さんの幸せを祈っています。
私も「娘さんと歩いているのを見てたよ」と後から聞くことが多かったので、沢山の人が祈っていてくださったのだろうなと思います。
子育てを楽しみつつも、人知れず苦労を重ねている多くのお母さんのために、心からお祈りしています。
また、そんなお母さんたちを見守り助けているお父さんや、職場や周囲のみなさまには、心から感謝いたします。
私たちを生み出してくれた母という存在が幸せでありますように。また、母のように全ての人を思いやる心優しき人々が幸せでありますようにという祈りをこめて。
◆変容プロセスの症状について
インナーウィッシュのHPで『エンジェルナンバー』に次いでアクセス数が多いページは『変異における身体的症状』です。
このページでは、変容プロセスの各段階(ライトボディレベル)で身体に現れる様々な症状についての説明を、『ライトボディの目覚め』という書籍から紹介しています。
毎日毎日、このページにアクセスする人が後を立たない現状を見ますと、多くの方が変容プロセスの途中で、さまざまな身体的症状に悩まされているのではないか・・・と想像できます。
私もこれまで長い年月にわたって、数々症状に出会ってきました。頭痛・腰痛・手のしびれ・心臓の痛み・発熱・嘔吐・下痢・疲労・電球が飛ぶ・電気製品のショート・・・。
◆症状の扱い方
その度に「また変化の波がやってきたなあ、やれやれ・・・」と感じ、2013年には、変化の波と身体的症状について、ブログを書いたこともあります。(アメーバブログ『変化の波と身体』)
また、変化のプロセスの入り口に立って戸惑う方のためには、「変異についての考え方」という記事を書き、苦痛な症状かもしれないが「生理」のようなものと表現したことがあります。
その後も、変化の波が訪れるたたびに、色々な症状に出会ってきたわけですが、随分年月がたった今、「変異における身体的症状の扱い方」について感じることがあり、あらためて表現してみることにしました。
◆激しい胸の動悸を感じる周波数
『アクエンアテンと弥勒菩薩』という2012年に書いたブログで、アクエンアテンと弥勒菩薩に関連する情報に接すると「激しい胸の動悸」を感じる、と表現したことがあります。
実を言いますと、最近でも同じで、この両者の情報に接すると「激しい胸の動悸」を感じていたのです。当時は全くわけがわからなかったのですが、今はっきりわかることは、この両者に共通する周波数を受け取った時の身体的症状だ、ということです。
◆スポーツにおける筋肉痛として
この動悸を感じるますと、非常に動揺して疲れるのがいつものパターンだったのですが、先日ふとした瞬間に、ある直感を得ました。それは、この「激しい胸の動悸」は、ランニングでスピードをあげた時の「筋肉痛」のようなものではないか、と。
つまり、筋トレやランニング他スポーツで、自分のレベル以上のステージで身体を使った時に起こる筋肉痛のようなものだ、と。筋肉痛はスポーツでレベルアップする時にはつきもので、使っていない筋肉を使ったり、いつも以上にスピードや負荷をかけると起こります。でもそれを恐れる必要はないし、そのレベルに身体が慣れてくれば、自然に治ってしまいます。ただし、無理しすぎると故障の原因になりますが。
変異における身体的症状が「スポーツにおける筋肉痛のようなもの」と実感できた時、これまでの憂鬱さは消えて、何か晴れ晴れと爽やかな、ちょっとチャレンジ精神につながる気分を得ることができました。
◆積極的に慣れる
そこで、「激しい胸の動悸」も筋肉痛のように慣れれば平気になるはず、と筋肉痛にもアクティブレストするランナーのように、直面する気持ちでいますと、あっという間に慣れてしまい、細かい振動程度にしか感じなくなりました。そして、「この周波数は受け取れる」という感触を得たのです。
以前は、変異における身体的症状を「女性の生理」のように成長にともなう身体の変化と表現したわけですが、それですと何か「仕方ないが受け入れるしかない・・・」というような、ちょっと否定的で受け身な感じになってしまいます。
◆前向きに明るく成長する
でも、変異における身体的症状は「スポーツにおける筋肉痛のようなもの」と表現すれば、もう少し、積極的に前向きに、これからレベルアップするぞ!というような希望を感じられるのではないか、そんな風に感じました。
まあ、これはあくまでも私の印象ですので、参考になるかどうかわかりませんし、スポーツ大嫌いという方には、かえって嫌な印象になるかもしれないので申し訳ないのですが、少なくとも、「成長していく」「慣れていく」という印象を持つことは、役に立つような気がします。
身体的症状も、ステージアップの筋肉痛のように前向きに受け止めながら、子ども達の輝く成長プロセス同様に、魂の成長も、明るく光に満ちたプロセスとなりますよう祈っています。
「役割を果たそうとしている人」を見ると、応援したくなります。たとえそれが、人から評価されないような小さな役割であっても、「この人はこのために生まれてきたんだ」と感じられると、魂が共振するのです。
逆に、どれほど多くの人から評価されていても、どれだけ大義名分があったとしても、その目的がエゴからきてるなあと思うと、残念ながら全く興味が持てません。これは本当に無理なのです。
「役割を果たす」というのは、大きな仕事、小さな仕事など全く関係ないですし、仕事か家事か趣味か遊びかも関係ありません。ふとした瞬間に、「持って生まれた役割」のような光が垣間見えるのです。
「役割を果たす」とは、自分のためのことではないのだと思います。宇宙が地球のために創った大きなパズルの1ピースのように、その役割を果たすこと。それによって賞賛や感謝は必要なく、ただ「それが自分の役割だ」と無意識に感じていること。
人になかなか理解されず、色々と困難があっても、ひたむきに役割を果たそうと努力し続けている人。そんなふうに純粋に黙々と「役割を果たそうとしている人」をこれからも、応援していきたいと思っています。
時々「まっすぐな道」という言葉が降りてきます。そういう時は、なんとなく道草食ってたり、ちょっと迷っていたりする時です。
「まっすぐな道」という言葉には、何か背筋が伸びるような、道を正されるような、自分の道に引き戻されるような不思議な力があります。
今日は次女の中学の部活体験日。あと半年ほどで中学生です。
子供の成長って早いですよね〜♪
先日、お祭りに行った時、次女の自転車に置いて行かれた上、帰宅後は自転車のタイヤに空気をいれてもらい、いつの間にか逞しく成長していることに気づかされました。
そういえば、自転車の練習中だった幼い頃にも置いて行かれたことがあったなあ…と懐かしく思い出しました。当時も今もかけがえのない時なのですよね、きっと。
2011年 次女6歳の自転車練習ブログ⇩
毎年、「ママは今年何作るの?」と聞かれるのですが、娘達にもプレゼントするので「秘密〜!」と答えています。実は、当日になるまでアイディアが浮かばないのですけれど。
「ママは毎年毎年ちがうものを何十年も作っててネタがつきないの?」とも次女に聞かれました。意地でも(笑)同じものを作ったことはないです。
そんな今年のチョコ、テーマは「軽い愛」(笑)。
毎年毎年、粉物にチョコたっぷりの重い重い愛で、パパに「もう食べられない」と言われるのが悲しいので、今年は「軽さ」重視で選んだ「チョコパイ」。
↑こちらのレシピを参考に、焼き加減とデコレーションをアレンジしました♪
短時間で簡単に作れるのでオススメです!(Banyangardenさんに感謝)
チョコパイ大好きなパパは、3本ペロリと完食してくれました♪「軽い愛」大成功です!
先日、長女がこんな話をしていました。
「高校のクラスメイト達が『チョコ作りも今年で最後か〜』と話しているのを聞いて、なんだか違和感があったんだけど、理由がわかった!」「ママは今でもずっとチョコ作ってるから、永久に作り続けるものだと思ってた」
私たちは今年銀婚式(結婚25周年)、出会ってから30年を迎える夫婦ですが、毎年毎年バレンタインにはチョコを作っています。というか、私が小学生時代から数えると、すごい年数作ってます。単純に作るの好きなんですけどね(その割に上達しないのですが)
10年くらい前からは長女も一緒に、最近では次女も一緒に、3日間スケジュール調整して作るようになりました。パパと娘と友チョコお礼用にしか作らない私と違い、娘達は工場のように大量生産です。
中2くらいまではラッピングの手伝いが必要だった長女も、高2の今年は夜中の1時までかかって全部自分で、売り物レベルの仕上がりになってました♪
そんな長女は、女の子の友チョコ以外にも、仲良しの男子やお世話になった男子にもあげていました。私もよく知っている子達で、私からもお礼を言いたいくらいお世話になった友達です。
それは全然問題なかったのですが、今年の長女とのバトルは、「カップルの男子だけにあげんなよ!!」ということでした(笑)
本人は全く悪気もその気もなく、他の男子同様に感謝の気持ちでいっぱいなものですから、「なんでよ〜!別にいいじゃんか」と反論しきり。
「いやいや、彼女持ち男子に手作りはやめとけ」と、いろんなサイトの情報を駆使して説得し続けた1日。長女の反論は「そんなんじゃないから」の一点張り。わかっているんですよ、感謝の気持ちしかないことは。
でもね、余計な心配をしてしまう、彼女の気持ちを考えたことはありますか?彼女が仲良しの友達でよく知ってるからって、何も感じていないとはかぎらないですよ。カップルの友人は同性を大切に扱った方が良いのでは?
とにかく、なんとか長女に理解してもらおうと翌日伝えたのが、「瓜田李下(かでんりか)」のたとえ話でした。
瓜畑で靴を直せば、瓜泥棒と疑われ、すももの木の下で冠を直せば、すもも泥棒と疑われる・・・だから、人に疑われるようなことはしない方がいい。
「君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に処らず、瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」という『古楽府・君子行』からの言葉です。
これが、予想外に長女の腑に落ちたらしく、一瞬で「わかった!もうやめとく」という結果になりました。おそるべし故事成語の威力。。。
長女は全くそんな気なく感謝の気持ちで渡したつもりでも、知らない人が渡した事実だけ見たら、そんな風に見えるかもしれないと、納得したそうです。
十不善行(苦しみの原因であるため心の中からも取り除く必要がある十の善くない行ない)にも、「邪淫」(自分の妻や夫以外の人と深く交わること)が苦しみの原因であると説明されています。
カップルでも夫婦でも、よその男女仲にちょっかいを出すことは、何かしらトラブルの種となるので、やめておいた方がいい、そういう風に長女に説明しました。
芸能界のニュースでも夫婦のトラブルで人生の途中で、それまでの成功を棒に振っている方々が沢山いらっしゃいます。大変辛いニュースです。
他人の男女仲にちょっかいを出すと、いつか自分にトラブルの種がやってきます。自分の彼氏や旦那さんにちょっかいを出す女性に嫌な思いもすることになるでしょう。自ら自分の人生に不幸の種を蒔くことになるのです。更にひどいことをしてしまったら、後々の人生何回生まれ変わっても後悔と苦しみが続くかもしれません。
逆に他人の男女仲を大切に扱えば、自分達の男女仲も大切に扱われるようになります。自分が信頼されるような態度で接することは、信頼できる態度で接してもらえる結果につながります。
ちょっとしたトラブルの種も未然に防ぐことは、後々のしあわせな人生に役立つのです。
そんな長女とのやりとりに疲れていた夕方、次女が音読の宿題で「わらぐつの中の神様」を上手に読んでくれました。私が小学生の頃に教科書で読んだことのある大好きな話です。その「わらぐつの中の神様」の懐かしいラブストーリーに、心が温かくなりました。
そこで、頑なになっている長女に下記のあらすじをLINEで送ってみました。
すると長女から「知ってる話なのに、泣いた」と返信がありました。
「使う人の身になって、心をこめて作ったものには、神様が入っているのとおんなじだ。それを作った人も、神様とおんなじだ。おまんが来てくれたら、神様みたいに大事にするつもりだよ」とプロポーズしてくれた若い大工時代のおじいちゃん。「神様とまではいかないようだったけど、でも、とてもやさしくしてくれたよ」とラブストーリーを話してくれたおばあちゃん。
そんな風にお互いを大事にできる、しあわせなおじいちゃんとおばあちゃんになれたらいいね、と長女と話した夜でした。長女はそれからYouTubeで「朗読 わらぐつの中の神様」に聴き入っておりました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
2017年のバレンタインデーは、長女といろんな話ができた1日でした。
お互いを大事にできる関係を築いていくことができますように。
愛と光と感謝をこめて
インナーウィッシュ