苦しみを乗り越える

苦しみを乗り越える

苦しみを乗り越える

苦しみを乗り越えるための方法について、『ダライ・ラマの仏教入門』ダライ・ラマ十四世 テンジン・ギャムツォ/著より引用しています。

 


以降の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

 

ダライ・ラマの仏教入門―心は死を超えて存続する (知恵の森文庫) 

【参考】

『ダライ・ラマの仏教入門』

ダライ・ラマ十四世 テンジン・ギャムツォ/著

石濱裕美子/訳

光文社(発行所)

1998年4月5日:4刷発行


それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。

 


四苦八苦

 

現代日本語で「四苦八苦」という言い方があるが、そのうち四苦は生・老・病・死を差し、八苦は、四苦に愛別離苦(あいべつりく、愛するものと別れなければならないことによる苦)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、一切行苦(およそ作られたもの、すなわち無常なものはすべて苦である)という四つの苦を合わせたものを言う。

 

苦しみを乗り越えるには

 

私たちは苦しみを望んでいません。問題はどうこれを克服するかなのです。このような苦しみを乗り越えるための方法があるかないかを考察することが必要です。

 

私たちが今現在、体験しているどのような苦しみをとっても、それが無知に起源を発していることに気づきます。

 

無知であるかぎり、それは苦しみの種子、つまり源となって、毎秒ごとに私たちは次の生を生み出す原因となる「行為」を始めているのです。

 

このような過程のなかで、私たちは「潜在力」――無知によって引き起こされた行為が形成した潜在力――を私たちの意識の流れのなかに限りなく蓄積してきているのです。私たちは将来の生に向けて、このような限りない潜在力を、いままさにこの時にも持ち続けているのです。

 

業の報いを受けるのは将来の自分自身

 

私たちは、「私は昔かくかくしかじかのことをした」といった言い方をしますし、行為の主体は私自身であるというのは確かなことです。誰か他の別の人がその行為を行なったわけではありません。「私自身」というのが、行為を行なった「単なる私」の連続体である、という観点からは、そのように言うことは間違っていません。

 

しかし事実をさらに深く考えると、行為は終わった次の瞬間には消滅しており、また今の瞬間の「私」は前に行為を行なった瞬間の「私」とは違った者であることに気づきます。それでも、私たちは心のなかにその行為の記憶があり、実際に「私がそれをした」と言います。これは事実と一致しています。それゆえに人は自らの行為を保持しつづけることになるのです。

 

このように行為と行為の主体であるものとの間には密接な関係があります。これがいかに長い時間が経過しようとも、前の行為と将来に起きる報いとを結びつけるものなのです。それによって業を集積していく人としての「単なる私」の連続体はつねに存在しつづけるために、人はその業を集積した「私」でありつづけるのです。そして前に行なった行為の業が熟しきると、その人以外の誰かがその行為の果実(報い)を受けとるものとなるのでしょうか。報いを受けとる人はその人自身しかいないのです。

 

体と言葉の悪い行為を抑制する

あなたが自己中心的な動機によって行動し、悪い行為――殺し(殺生・せっしょう)、盗み(偸盗・ちゅうとう)、邪な淫欲(邪淫・じゃいん)、嘘(妄語・もうご)、陰口(離間語・りけんご)、おしゃべり(綺語・きご)、二枚舌(両舌・りょうぜつ)――をするときには、あなたは相手ばかりか自分をも苦しめているのです。

 

暴力が他の者に与える害を思わなかったとしても、行為の原因と結果(因果)の観点からその暴力の報いが自分自身にふりかかってきて輪廻の生に巻き込まれてしまうということを考えるならば、体と言葉によってなされる悪い行為を抑制しなければならないということに気がつくでしょう。このように考えることによって、他のものを傷つけることは自分に損失をもたらすという確信はいよいよ強くなってきます。この点は何度も何度も繰返し省察しなければなりません。

 

真の敵は自分自身の煩悩

 

あらゆる苦しみを私たちにもたらす煩悩は十二支縁起で説かれているものです。煩悩のうちでもっとも根本的なものは「無知」(無明)つまり、対象をなにものからも自立した存在として捉える働き、であります。

 

無知の力は「貪り」(貪・とん)と「怒り」(瞋・じん)ならびに、「傲慢」(慢・まん)、「憎悪」(恨・こん)、「疑い深い心」(疑・ぎ)、「妬み」(嫉・ち)などの諸煩悩を引き起こします。

 

それらは実際に苦を生み出すもので、私たちの今の世界に満ち溢れている問題や危機を分析してみると、家族レヴェルであれ国家レヴェルであれ、それが私たちの怒りや妬みや執着に関係していることは明らかです。

 

あなたがとも憎んでいる「敵」について考えてみましょう。この人の心は鎮められていないので、私たちに害を及ぼそうとします。これが私たちがその人を敵であると思う理由です。

 

もし、この怒り、すなわち、相手に害を及ぼそうとする気持ち、がその人の本性であるとするならば、これはどうしても変えることのできるものではありません。しかし憎悪はその人の本性ではないのです。むしろ私たちと同じように、その人はある煩悩が生まれたことによって悪い行ないを表わしているのです。

 

私たち自身もまた悪い行為をしているのです。ただ、私たちは全面的に自分が悪いとは思っていないだけです。この事情は私たちを敵とみなしているその人についても言えることなのです。

 

つまり、現実に問題を起こしているのは、敵その人ではなく、その人の煩悩なのです。真の敵は人々の内側にあるものなのです。

 

仏教の修行者にとっての真の標的、ないし戦場は私たちの心のなかにあると考えなければなりません。時間はかかりますが、災いをもたらす心の性質を最小限に押さえるための唯一の方法なのです。このような修行を通じて私たちは遠い未来の次の人生においてばかりではなく、必ずや私たちは心の平和、静けさを見いだすことができるはずです。私たちの心の平和を乱すもっとも基本的なものは憎しみや怒りです。あらゆる不健全な態度が苦をもたらしますが、なかでも憎しみのそれはもっとも強力なものです。

 

心の性質は死を超える

 

すべての人が幸福を求めており、苦を望んでいないのは確かなことです。この点については議論の余地はありません。しかし、いかにして幸福を得るか、あるいは困難を克服するかについてはさまざまな異論があるでしょう。幸福にもいろいろな種類があり、それを実現する方法はいくとおりもあります。また、苦にも大変多くの種類があり、それを克服するさまざまな方法があります。

 

お金は有用ですが、有限です。次の人生まで持って行くことはできません。世俗的な権力や財産のなかにも、確かに良いものがありますが、これも有限です。一方、仏教の視点から言えば、心の発達は今生から来世へと存続していきます。

 

心の性質は死を超えて存続するものですから、もしある種の心の性質が堅い基盤の上に発達するならば、それはつねに存続し、そればかりか増大させることができます。実際、いったん正しく心が開発されたならば、心の持っている良い性質はついに無限に増大していくのです。それゆえ精神の修養は、未来永劫にわたる幸福と、日々増大し続ける内なる力の両方をもたらしてくれるのです。

 

 


以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

ダライ・ラマの仏教入門―心は死を超えて存続する (知恵の森文庫) 

【参考】

『ダライ・ラマの仏教入門』

ダライ・ラマ十四世 テンジン・ギャムツォ/著

石濱裕美子/訳

光文社(発行所)

1998年4月5日:4刷発行


それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。

 


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ダライ・ラマ14世(1935年7月6日 - 在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマである。法名はテンジン・ギャツォ。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に。1959年に中国からの侵略と人権侵害行為に反発してインドへ亡命。亡命後は、欧米でもチベット仏教に関心のある人や複数の著名人の支持を得、ノーベル平和賞を受賞し、国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされる。

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