意識の純化・神性・仏性による道【自己変容の道4】
意識の純化・神性・仏性による道【自己変容の道4】

意識の純化・神性・仏性による道

 

意識の純化・神性・仏性による道について、『ダライ・ラマ、イエスを語る』(ダライ・ラマ=著・中沢新一=訳)より引用しています。

 


以下の紹介内容は、すべて下記より抜粋・引用しています。

ダライ・ラマ、イエスを語る(単行本)

【参考】

『ダライ・ラマ、イエスを語る』

ダライ・ラマ (著)

中沢新一 (訳)

出版社:角川書店 (1998/5/1)

 

画像はフリー素材を使用して編集しています。

小見出しは内容に合わせて作成しました。

文章はすべて本文の一部を抜粋・引用しています。



「意識の純化」の道

ダライ・ラマの言葉

 

私たちのふつうの体験の中では、意識はいつも「対象」と「主体」という、二元論的な外観にとらわれてしまっています。ですから、私たちは、対象から影響を受けたものとしての意識しか、経験したことがないと言えるでしょう。知覚は、対象から切り離すことがほとんど不可能なものです。青い色のものを知覚するときには、私たちはその知覚自体が青であるかのように思うのです。

 

ところがわたしたちは、意識することによって、この意識からさまざまなパターンや概念や記憶や、そしてこれが重要なのですが、感覚経験による先入観などを取り除き、それを無化することによって、意識のもっとも基本的な本性を経験の中にもたらすことは、可能なのです。

 

意識の本性として私が語っているのは、さきほども話題に出た、純粋な光輝、純粋な経験、純粋な「知る」こと、そして純粋認知などのことです。ですから、深い目覚めの状態を持続しながら、心の中に生じている乱流にストップをかけることができれば、概念による思考のプロセスや感覚経験を追い続けている思考パターンなどの働きを停止させて、意識というものをもっと深いところで認識できるようになります。ひどく気が散っていると、これはうまく行きません。意識を目覚め続けさせておき、心の中の思考の揺らぎや感覚経験を止めるようにするのです。そうすれば、心の本性をちらっとのぞくことができるようになります。

 

はじめてこの本性を経験するときには、ただの空虚のようなものにしか思えません。しかし、修行を積めば、その時間を伸ばすことが可能です。瞑想が上達するにしたがって、この経験の長さを延ばしていくことができます。そして、心の本性とそれがそなえている透明さや認知力が、ぐんぐんとあきらかになってきます。物理的なものと結びついた意識とは違う、意識の本性というものを、このように認識していくことが可能なのです。

 

意識と物質との相互依存について、仏教徒ならば、心とその心から生じた動機づけが、実際に個人の行為や行動を決定しているのだ、というふうに説明するでしょう。どんな行為も、行為そのものの意義にかかわりなく、心にその痕跡を残します。そして、この行為は即座に経験に影響を与え、その人の住んでいる世界そのものにも、直接の影響をおよぼすようになるのです。それによって、その人にとっての世界は変わってしまいます。

 

こういう基礎にたって、仏教徒は心と物、心と身体の相互依存を説明してきました。ご承知のように、仏教では「カルマ(業)」という用語が使われます。カルマの教義そのものは、心に残される痕跡や潜在性について、またその潜在性がどのようにして現実化されるのか、どのようなダイナミズムでその潜在性は働くのか、などについて、さまざまなことを語っていますが、大事なことは、心の状態が原因となっている行動や行為なのです。

 


神性の道

ローレンス神父の言葉

 

猊下から、意識についてすばらしいご説明をいただきましたが、私はそれをキリスト教的な理解、とりわけ「キリストの心」にあてはめて、少し考えを述べさせていただきたいと思います。クリスチャンは、人間のキリストに対する意識は、私たちと共にあること、また私たちの中にあることだと信じています。瞑想を通して参入していくキリスト教の経験のエッセンスは、私たちの意識がキリストの意識に向かって開かれていくことにあります。

 

今ここに生起しているキリストの心と、同時に今ここに人間の意識のうちに生起しているキリストの意識とは、さきほど猊下が説明してくださったような、絶対的な純粋さと汚されることのない一体感のうちにあるのだと思います。キリストと出会い、知ることが、どのように人としての解放と運命の充足をもたらすのかについて、クリスチャンがどう考えるか、簡単に説明させていただこうと思います。

 

クリスチャンがキリストを知るようになる最初の段階は、子供の頃、お話を聞いたり、『聖書』を読んだりするところから始まります。その後、イエスを神学的、哲学的、歴史的に理解し、知るようになります。それから、瞑想をとおして、今度はそれを「内側から」理解するようになります。

 

つまりイエスは歴史上の教師というだけでなく、人間一人一人の内部に実在するものであり、宇宙に偏在するプレゼンスなのだということを、経験するようになるのです。イエスは時間と空間を超え、そのためにイエスは「すべての」時と「すべての」場所におられるのです。

 

しかし、キリストがどのように私たちの教師であり、私たちの道であるかを完全に理解するためには、イエスが私は道であり、扉であると話された『聖書』に戻っていかねばなりません。私たちはその扉を通って行きます。イエスは私たちが通っていく門です。

 

彼は自分ではなく、常に父を指し示しておられます。ですから、たとえば、ミサで「イエスにおいて、イエスとともに、イエスをとおして」父の所にいく、という言い方をします。その意味では、イエスは教師であり、グルであり、私たちの内部に「住まう」イエスの意識を通って行く道にほかならないのです。これが神の臨済です。神の愛と完全にひとつであるイエスの意識は、私たちのための愛の経験です。猊下、意識をこのように説明することに、コメントをいただけますか?

 


仏性の道

ダライ・ラマの言葉

 

今のローレンス神父のお話には、仏教の修行と似たものがあります。仏教では、「如来蔵」すなわち完成への種子、として語られる仏性の思想があります。この仏であることの種子、または仏性の種子の本質については、仏教内部でもさまざまな異なる意見がありますが、これは私たちすべての中に宿る心の本性のことを言い表そうとしています。この如来蔵はさきほどお話した単純で純粋な光輝のことや、純粋な本性そのもの、あるいは心を歪める不完全さを乗り越えて、解脱にたどりつくための潜在能力などのことにも、つながっています。

 

すべての人にこの仏性が宿る、ということを立証している根拠のひとつは、人間には共感の能力のあることです。その能力は人によって違うでしょう。ですが、すべての人は生まれながらにして、共感の能力を持っています。この仏性の種子、悟りの種子、完成への種子は、すべての人に生まれつき備わっているものなのです。新しく開発しなければならないものなのではなく、はじめからそこにあるのです。

 

しかし、完全なる完成にたどり着くには、霊性の修行者がそのような性質をただ持っているというだけでは、十分ではありません。潜在力をとことんまで伸ばさなければなりません。それには、助けが必要です。仏教の修行では、覚醒を得た案内人である、グルと呼ばれる教師の助力が必要とされています。

 

仏教の書物では、この教師のことをブッダからの祝福を受けるための入り口、と表現してあることがよくあります。この入り口を通ってブッダと話し、触れるのです。教師の経験豊かな導きと、あなた方の内部にある仏性がひとつになるとき、仏性が動き出します。それをとらえて、あなた方は仏性を完成に導き、持てる潜在力のすべてを自分の内部から解き放つことができるようになります。これは、ローレンス神父が今おっしゃった考えと、大変よく似ていると思います。

 

私たちは全員この神性を内部に持っているのですから、キリスト教の修行者は、キリストを通じ、イエスを通じて、自分の中にある神性を活性化し、存分に活用し、それを完成にもたらそうとするでしょう。イエスをとおして開花し、父とひとつになるのです。

 

仏教の考え方でも、自分の中の仏性を完全に達成すること、つまり悟りは、法身の広大な広がりと「ひとつ味」に溶け合うことだ、と表現されることがあります。「ひとつ味」になることは、法身の状態と不可分に結び合うことです。しかもそれで、個人のアイデンティティがなくなったりはしないのです。

 


以上の紹介内容は、すべて下記より抜粋・引用しています。

ダライ・ラマ、イエスを語る(単行本)

【参考】

『ダライ・ラマ、イエスを語る』

ダライ・ラマ (著)

中沢新一 (訳)

出版社:角川書店 (1998/5/1)

 

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文章はすべて本文の一部を抜粋・引用しています。



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ダライ・ラマ14世(1935年7月6日 - 在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマである。法名はテンジン・ギャツォ。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に。1959年に中国からの侵略と人権侵害行為に反発してインドへ亡命。亡命後は、欧米でもチベット仏教に関心のある人や複数の著名人の支持を得、ノーベル平和賞を受賞し、国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされる。

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仏陀(ブッダ)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。サンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。基本的には仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

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キリストとは、古典ギリシア語「クリストス」の慣用的日本語表記である。「クリストス」は「膏(油)を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア」の訳語であり、旧約聖書中の預言者たちが予言した救世主を意味する。イエス・キリストは、ギリシア語で「キリストであるイエス」という意味である。キリスト教においてはナザレのイエス(紀元前4年頃 - 紀元後28年頃)をイエス・キリストと呼んでいる。

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マザー・テレサ(1910年8月26日 -1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者である。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって「福者」に、2016年9月4日、ローマ法王フランシスコによって「聖人」の列に加えられた。

 

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